昭和56年9月12日 朝の御理解●④ ② ②
                              明渡 孝

 御理解第92節『神は一体じゃによって、此方の広前に参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ』


 ●④「信心は、あなたにとって何ですか」と、といふうに例えば問われたとする時に、「信心は、私の命です」と答える人。ね。「信心とは、おかげを頂くために」もし私に問われたら、私は、「信心とは、私にとって命以上のもの」と答えるだろうと思います。●④
 私は、合楽で人が助かるというのはね、そういう信心にだんだん、私も始めは、やはり金光様っちゃご利益あらたかな神様で、ご利益をどうしても頂かにゃん。「もうこちらは頭は悪いし、大したこともできんのだから、神様のおかげを頂かにゃ」といったような思いは、誰よりもやっぱ強かったようです。若い時から。
 だんだんおかげを頂いてまいりまして、やっぱり「信心は命だ」と答える時期が、れれる時期があって、まあその時分から本当の信心を目指したと思いますけれども。今日、こうしておかげを頂いてまいりますと、あなたにとって信心とは、命以上のものだ。
 同時に私は、金光教の信心は、どこまでも生神金光大神を目指すということは、誰でも言うし、誰でも知っておることですけれども、私は、本気でそれに取り組んでおるということです。
 私、合楽で人が助かるとか、ね、みなさんがたくさんの教会を通り越えて「合楽教会、合楽教会」と言うて参ってみえるのは、まあいうならば、そういうところにあるのではなかろうかと思います。みなさんどうでしょう。みなさんにとって合楽とは、またはみなさんにとって合楽のお道の信心とは、信心とは、と聞かれた時に、どういうふうに答える。「そら、合楽参ってみなさい。おかげが頂きますよ。それで私も参っておる」というような人もありましょう。あっていいわけです。私どももそうでした。
 ですから、それからだんだん、やはり信心のお育てを頂いてまいりますと、自分でも考えもつかなかったこと。もう思うてもなかったことが、私の心の上に頂けるようになり、それが夢にも思わなかったようなおかげに現われてきておるという事実でございます。
 昨日、今年学院を出たばっかりの修行生ですが、末永錦也君という、郷ノ浦教会の長男です。お父さんが合楽に傾倒してしまっておりますから、子供達もやっぱりそうです。でこっから修行生としておかげを頂いてまいりまして、ほんとに真面目に、一生懸命信心の稽古を若いながらもさせて頂いております。昨日の朝、お夢を頂いたというてお届けにきました。ね。
 ●②潜水艦に乗り込まなければならない。その時に彼が夢の中で思うた。「はあ、もう俺の命もこれまでだな」と。と思っておるところで目が覚めた。もう「良かった。夢で良かった」と言うんです。うん。実感でしょうね。
 けれども、やっぱり取次者たるもの、やはり、ね。人が助かるということは、神様も一緒に助かって下さるほどしのたいへんな御用をさせて頂くのですから、ね、それこそあの、昔の特攻隊とか、まあいろんな戦いん挑んだ若い、若い時でなからにゃできない、いうならば御用というようなものがございますが、とくにあの、戦時中の、まあだ十代の若い人達がね、特攻隊を私願しました。それはやはり国を思う、いうならば「愛国の心」ということでございましょうがです、ね。
 だんだん、自分が大切、自分が助かればというところからね、ね。いわゆる国の助かりを願う。それが私は特攻隊、いうなら精神であったとこう思うんですよね。ね。いわゆる、命を国に捧げるという。●②
 だから、信心もだんだん極まってまいりますとね、「教団愛」という、「自分さえ助かれば」というなもんじゃない。いわゆる「教団愛」というか、ね、いわゆる天地の親神様の心を心としてというような生き方になる時に、もし私が修行させて頂いて、それこそ(神輿の?)( ? )じゃないけれども、私に関わり合いのある人達がみんな、いわゆる「私に関わる一切衆生のものが、助かることのためならば、どんな修行でもいといません」というような生き方。そういう生き方からしか、私、あまり人の信心ぶりというものを見ておって思うことは、そういう時に、とてもそげな喜びは湧いてこんと思う。
 そういう時に必ず腹が立つと思う。そういう時に必ず、普通なら逆上すると思う、といったようなところを、逆上でもなからなければ、腹立ちでもない。悲しい苦しいということでもなくて、それをもうほんとにニコニコで受けてきたということです。ね。
 それは、んなら、その芯にどういうところかというと、私に関わり合いのある人達が、助かる手立てであると思い、修行だと思うたら、ありがとうなってくるわけですね。嬉しゅうなってくるわけなんです。ね。まあそういうふうにもだんだん信心が育っていかなきゃなりませんが。
 昨日そのことから話したことでしたけれども、今の黄楊会というのがございます。ここにはあの、菊栄会、それから松栄会、それから、これは男達、男の方達ばっかりの、まあ年代においての会ですけれども。黄楊会というのがある。ね。
 あれは、三島由紀夫の「生首事件」がありましたよね。ちょうどそれと前後して、あの黄楊会が発会したんです。そん時に私は、「黄楊(つげ)の会」と頂いとったんです。ところが、あの会が何か、何じゃったかね、あ、盾の会か何か、いわゆるその国の盾になろうといっような意味でしょうね。その焦点は、(  ?  )としてね、そこに命を懸けておる。ね。それこそ、(?)にも盾ともならんというような、ようなところから、その考え方、思想においては、まあ合点がいきませんけれども、若い人達が命を張ってそれに、けれども、何ともその事件が、あんまり生々しかったから、私は黄楊(つげ)の会というのを「こうよう」と読ませるようにして黄楊会が生まれました。
 ●②その発会を願い出た時に、神様から私が頂きましたのはね、飛行機からパラシュートを抱いて、飛び降りる勇気がなからなければ、黄楊会には入られんぞ、といったような御理解でした。いうならば、まあ当時の松栄会が、何と言うでしょうかね。まあ、(しょうこうれん?)なら、ね。または、菊栄会が(こう?)なら、黄楊会は、まあいうなら(とういん?)、特攻隊の気持ちというようなものがね、なからなきゃできないよ。ね。助かるんだ、けれどもやっぱりあの、パラシュートを抱いて飛び降りるというあの勇気は、たいへんな勇気がなからなければ、やっぱなかなか飛び降りられないだろうとこう思います。●②ね。
 そのくらいな気持ちでひとつ、黄楊会の発会のおかげを頂いたらいいだろう、ということを頂きましたが。神様が、いつも私どもに求めておられるのは、そのことじゃないでしょうかね。ただおかげを頂くから、ご利益を受けるから。そこにはね、真の助かりはないです。ね。真の助かりはです、いわゆる、一心一命をです、ね。いわゆる信心に傾倒する、いくうちに、「信心は、私の命です。いや、命以上です」「神様が喜んで下さることであり、人が助かることならば、どんな修行もいといません」とうい腹がでけたら、それこそパラシュートを抱いて飛び降りる勇気は要るけれども、必ず助かるです。開くです。ね。
 なら、開くからと、助かることが分かっておるからというのじゃなくて、その飛び降りる瞬間の勇気なんです。信心は。もう信心の、ほんとに進めて行くひとつの(きび?)のようなもんだと思うです。
 今日私、まあたいへん厳しいことを申しておりますけれども、ね、教祖様も仰る「十二分の徳を受けようと思えば、ままよという心を出せよ」と仰る。「ままよとは死んでもままよのことぞ」と仰る。ね。同じことなんです。ね。そのままよの心がなからなければ、もしなかなかったら、もうこれで一合目終わりということを思うただけでも泣かにゃん、と( ? )ですよね。
 信心のパラシュートは絶対に開きます。ね。ですから、そこまでの心を高めてまいります。
 先日、今度金光宣伝に合楽のことを三ヶ月に、三回にわたって合楽の信心を書くというておられました。帰りがけに色紙を持って来て「何か一つ書いて下さい」とこう言う。ね。だから私は、ね、「天地人一如」と書こうと思ったけれども、たいへん難しいようでしたから、「自然に解け込むことは、自然を生かすことだ」と書いて渡しました。ね。
 自然に解け込む、いうなら、天と地の間に介在するものが何もない。ただ、私の心がその中に入っていくという、ね、自然に解け込んでいくということ。それは、天地の親神様の働きを生かすことになる。自然を生かすことになるのだと。それを一口で言うと「天地人一如」だと。
 私が思いますことですけれども、これはもう日々思う、目が覚めて休むまで思うことですけれども、私が思っておることが、神様が思ってござることだな、といつも感ずることなんです。これはもう、休むまでそうです。ね。
 昨日朝、起きるから一日、小児喘息のことをテレビで見ておって、非常に心に掛かっておった。そしたら昨日は、小児喘息のお届けが何人も何人もありました。または、小児喘息がご神米一体で、それっきり発作が止んだというお届けもありました。ね。
 例えば、昨日ある方が、お父さんが熱心に参ってきます。子供もやっぱり参ってくるんです。それがこの頃、お仕事の方が左前になって、金を、金の工面をしなきゃならない。それでその、お繰り合わせを頂くように、というお願いであった。ほう、私、あんたん方はもう、それこそ、「また売れたまた売れた」というように、お父さんから聞いとったけんで、残りよるかと思いよったら、どうしてそげな赤字になったのっち、まあ言うて話したことでしたけれども。
 ちょうどその時に、喘息でおかげを頂いたという人の電話がかかってきた。その電話で私、ここにお届けしておったのが、「金子正己(かねこまさみ)」という人であった。「かねこ」とは「金子」と書いてある。「まさ」は「正」である。「み」は「己」である。今、金子のお願いをしとるのは、自分自身の心に手を当ててみれ、赤字が出らんようなことをちゃんとしとるかと。正に、お前、己自身にあるよと。それが分かってお詫びをする気になったら、おかげにならんことないよ、と言うて、まあ昨日お取次ぎさせて頂いたことですけれども。
 ここの場合あの、お届けの順序ひとつの上にでも、これは天地人一如の世界に住まわなければ、感じることも体験することもできないだろうと思うような体験を、私は日々頂いておるということです。
 なら、そういう信心は、どこから生まれておるかというとです、ね。だんだんおかげを頂いて、信心とは私の命ですから、ね、なら現在問われたら、私は「信心は、命以上」と答えられるであろう。そして、目指すところはいつも、もうこれは誰でも言うことです。金光教の信心は生神、その生神を目指すことだというふうに言われます。けれども、本気で目指しておる人が何人あるだろうか。ね。生神を目指すのだから、ね、そこにね、いわば、天地人一如の世界があることを実感してまいりますから、それがいよいよありがたいものになってくるわけでございます。ね。
 いよいよ信心のお育てを頂きませんとね、自分で育とうというのじゃないのだけれども、やはり一心発起は私どもがせにゃいけません。ね。そこから神様の働きを受けることができ、そして、できそうにもなかったことが、ありがたくできるようにだんだんなってくる。
 私は、いうならば、ね、「神のひれいが違うのぞ」ということをです、神のひれいというのは、神様の前に、それこそ全身全霊を打ち向けておるということ。ね。そして、よしそれが神様のほんとにお役に立つことならば、ね、それこそ命も(じせない?)という心だと思う。ね。そういう心が、私は、合楽のひれいのもとになっておるのだというふうに思います。どうぞ。